私は、元々会社に就職して働こうという気は全くありませんでた。大学教授になろうと思ってました。アホなのに。
大学院こそ行きましたが、結局、小さな子会社に就職しました。
就職に全く魅力を感じない
10代のころ、父が働いているのを見て、一般企業で働くのは嫌だと思っていました。
それは、夏の暑いときにまで、長袖のシャツに背広を着て、ネクタイまで締めるなんて考えられなかったからです。
しかも、同じ時間に家を出て、帰ってくる時間は一定せず、遅くなってからしか帰ってこない。平日に父とお風呂に入った記憶がほとんどありません。
当時はバブル絶頂期で、働けば働いただけ給与がうなぎ上りだったと聞いています。現在のように、数千円程度の昇給額ではなく、1万も2万も昇給したと聞いています。
現在でもこれだけ、昇給すれば、一般企業で働く価値はあったかもしれません。しかし、私が就職するころの年齢には、バブルがはじけ、リーマンショックもあり、昇給どころか、就職そのものができない時代でした。
もともと、一般企業で働く気がなかったので、進学だけ目指して得意だった数学を伸ばしつつ、勉強に励みました。
そして、就職しない道を模索くしていました。
大学院への進学を目指す
7つ上のいとこが大学院へ進学していたことも影響し、私も大学院へ進学することを高校生のときに決めていました。
大学3回生のゼミについて先生の給与を聞いて、ますます、大学院へ進学し、大学の先生になりたいと思いました。
その給与というのは、当時その先生は助教授でしたが、こう言いました。
「一般サラリーマンのボーナスよりちょっと多い。」
これを聞いて、私もこれを目指そうと思いました。
しかし、現実はそう簡単には行きませんでした。修士課程は修了することはできましたが、その上の博士課程に進むことはできませんでした。
というよりも、当時の先生に反対されました。仕方なく、何社か応募したり、面接を受けたりしました。
大学側も就職氷河期とはいえ、就職浪人を出したくないから、就職課からうるさいくらい自宅電話がかかってきました。
居留守を使ってかわしていましたが、ウソがばれ始めて、渋々応対したこともありました。
そうこうしているうちに、たまたま、小さな子会社の内定をもらいました。
子会社への就職
あまり行く気のしない会社で働くことになり、足取り重く通勤していました。学生のころに始めたスキューバダイビングをすることだけが心の支えでした。
子会社での仕事は、親会社へ行って仕事する形で、まるで派遣社員のようでした。大した経験もないのに、出張させたり、有給使うには親会社に了解を得てから、自分の会社へ申請するという仕組みでした。
フレックスタイムが使えたので、私は朝早く出て、夕方早く帰るようにしていました。通勤の窮屈な電車に乗るのが嫌だったのと、人と長くかかわりたくないので、そういうスタンスをとっていました。
結局、その会社で働くのが嫌になって、趣味であるスキューバダイビングを極め、プロになって、会社を辞めようと決意しました。
しかし、会社に勤めながらでは、思うようにスキューバダイビングの講習が進められず、会社自体に行くのが限界に来たし、プロになるまでの資金はそこそこ貯まったので、会社を辞めました。
辞める時に一波乱ありました。私は有給を使い切ってやめようと思っていました。なので、最終出勤日を月末から逆算した日にしたかったのです。
ところが、いつものように有給の申請を親会社にしてから、自社に申請するようにしようとしたら、何もわかっていない自社の部長が切れたのです。
やめていく人間がその会社の後のことなど考えるはずがないのに、ネチネチと親まで侮辱するとんでもないやつでした。「こっちの言い分は聞かないけど、説明しに来い。」と意味不明なことをいう部長のいる会社に未来はないなと思いました。
こういう会社は辞めて正解だったと思います。
ダイビングインストラクターを目指して
会社を辞めて、ダイビングインストラクターになるために講習をうけることに集中することができると思っていました。
しかし、親の一言でまた人生が変わってしまいました。やはり、何も仕事していないことが、親にとっては心配だったのでしょう。
たまたま、新聞の折り込み広告の中に入っていた求人を受けてほしいとのことでした。ダイビングインストラクターになるまでの間でいいからということで。
子会社を辞めて、2か月ほど経過したときの出来事でした。
適当に面接を受けたら、落とされるだろうと思って、面接を受けたら、受かってしまいました。
それが今の会社です。
以前の子会社よりは、今の会社のほうが東証一部上場企業ですから、いいはずと思っていましたが、実はそうでもありませんでした。